ジョージ・オーウェル『動物農場』山形浩生訳 早川書房

1945年に初版が出版されたもので、原題はAnimal Farm: A Fairy Taleである。邦訳自体はたくさんあるので、様々な訳者のものでも楽しめると思われる。(以下のリンクがフリーのもの)

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本書のあらすじ

人間の農家に虐げられてきた動物たちは、その貧しく搾取されている現状を打破するため力を合わせ立ち上がる。無事支配からの解放を得た動物たちは、勤労を旨として農場を「動物農場」と改名する。そのうち知力の優れたブタが指導者となって「動物農場」の指導に当たることになるが、次第に権力を握ったブタは...

というものであり、本書の帯に掲げられた「あらゆる権力は腐敗する。それは歴史の必然なのか。」というコピーは、端的に本書を表しているといえる。

この本が、1917年のロシア革命とレーニン率いるボリシェビキ党によるソ連邦の成立、その後のスターリントロツキーによる権力闘争とスターリンの粛清政治をなぞらえているという解釈は多くの同意を得られるだろうし、オーウェルも序文案で述べている。

 

では、ここでオーウェルが述べたかったのは、ソ連型の社会主義の顛末を皮肉に風刺して見せることで自身の社会主義理念を正当化することだったのか。この時期、つまり第二次世界大戦が終わりを迎えた頃のソ連の位置づけを見ると少し見通しがよくなるかもしれない。

詳しくは不勉強なので申し上げられないが、ソ連第二次世界大戦における役割の大きさは、確かなものであった。それゆえ、ソ連が進める社会主義体制への批判は、ソ連の行うプロパガンダと相まってほとんどなかった。そのような状況のなか、オーウェルは本書を書きあげる。しかし世間はというと上記のような状況で、あからさまにソ連を批判する本を出版する出版社はなかなか現れなかった。また、当時のイギリスの新聞の様子や知識人の「ソ連の無批判の称賛(本書160頁)」は、言論の自主的な検閲を意味した。つまり体制への批判的な投書の秘匿や出版の差し止め、拒否を行ったのである。このような振る舞いは、言論の自由の自主的な放棄であり、オーウェルのいう「資本主義の民主主義も西欧版社会主義も」その擁護者たる地位を捨て去ったのである。この先に待つべきものは何か。それは本書で描かれていたように、権力の極端な肥大化である。ブタのいう事になにか疑問を抱いても考えることをせず、もしくは見て見ぬふりをするという姿勢は、ソ連への批判をやめたイギリスの姿をなぞらえることができるのである。止まることなく思考を続けよ。知識人が自由を擁護せずに、その臆病さから保身のため自由を手放す姿勢をオーウェルは批判しているのであった。

 

ここで疑問に思ったことをつらつらと書く。

①人類の大きな原則とされる「自由」を守るために、個人はどこまで自己を犠牲にすべきなのか。保身のために利己的な行動をとっても仕方ないのではないか。将来において自身に降りかかる不利益を考慮すれば、自由を放棄する行動は制限されるだろうという主張は、それこそ主観的なものであるので、そんなものは知ったこっちゃない、と言われるのではないか。

②「知る」「考える」ことに限界があるのではないか。つまり現代においては過剰なほどに情報があふれかえっている。情報の入手が容易になったおかげで、我々はそれらの情報を吟味する時間が無くなっているのではないか。丸山眞男のいうところの「知識の断片化」である。このような状況になると、思考し続けることは果たして正しいのであろうか。思考の強度が低下した中で下される判断の正当性は問われるべきではないのか。

③西欧型の表現の自由が、他国で、特にアジアで引き起こす問題はどのように捉えられるか。(これは次の記事で考えたい。)

 

考えれば考えるほど歩むスピードは遅くなってしまうが、何を恐れることがあるだろうか。