コンラッド『闇の奥』、サン=テグジュペリ『夜間飛行』を読んだ。

コンラッドに関しては、映画『地獄の黙示録』でベトナムに舞台をうつしてリメイクされている。初めは、植民地主義に対する批判的姿勢をとるものだと思ったが(実際その読みは正しいのだろうけど、物語の主張したいこととは異なる気がする)、私の感想で言えば、アフリカというフィールド(コンラッドの実体験に基づくものであり、その時代におけるアフリカに対する認識を念頭において)を考えるとそれは、人間の原初的な恐怖を味わったひとの語る物語である。当時の未知というと、それは現代とは比べられないほど知られていないものであり、全くの異世界であった。その中において、自身と同じ世界に属し同じ原理で動いていたはずのクルツ氏が、未知の世界で大いなる影響力をふるっているという事態に遭遇する。その真実の姿に近づくまでの恐怖、知りたいけれども、知ってしまったが最後、自分自身はどのようになるのだろうか。未知のものに触れた自分は、これまで属してきた世界を離れ、クルツ氏のようになってしまうのか。自身の存在が揺るがされてしまうような現実に触れるまでの船乗りマーロウの心情の吐露は半ば自嘲気味に茶化す様子も感じられる。それは、未知のものに触れて自身の存在がゆるがせにされたものの、何とか生きている自分、しかし確実に未知の世界に触れる前の時分とはちがう自分を意識している。そのギャップから生ずる安堵感、違和感が彼の語り口に浪漫的な冒険話の趣を与え、自分で体験することでしか把握できないという彼の言明のとおり、語られることと自分の語り口から生ずる違和感も感じていた。

サン=テグジュペリ『夜間飛行』

飛行機を飛ばす使命を帯びたリヴィエール氏とそこで働くファビアン。リヴィエール氏が作り出す仕事の世界。そこは非人道的なものであり一切の人情の介入を許さない。仕事というと何か陳腐なものに思えるかもしれないが、命を失う危険をはらむ仕事である。しかしどうしてか非常に美しい。それはファビアンが墜落直前に雲海の上に飛び出し、満点の星空が頭上をゆったりと瞬くのを眺めそれに心奪われるシーンを見れば一目瞭然であろう。それは宮崎駿の『紅の豚』の飛行機の墓場、『風立ちぬ』の最後の煉獄のシーンを思い起こさせる。非情な夢の残骸は、美しさを放ち心をとらえた。ファビアンは夢の残骸の予兆を感じたのだろうか。死の瀬戸際で、ほぼ死に傾いているときにその美しさはいやがうえにも増すのだろうか。

『闇の奥』ではクルツ氏に対するマーロウの思いを、『夜間飛行』ではファビアンの雲海に出るまでの心理描写の機微、そして彼の妻がリヴィエール氏に与えた影響を、次にもうちょっと考えて読む。